前回から続く→
店舗は無事に開店したものの、門前の病院が院外処方へ移行するまでに半年以上のタイムラグが生じ、その間は売上がほぼゼロという窮地が続きました。日増しに不安を募らせる母への対応に加え、役員陣から圧しかかる厳しいプレッシャーに疲弊する日々でした(本来、院外処方化の交渉や段取りこそが経営陣たる役員の責務ではないかとも思いましたが…)。なお、この売上に関する役員からの圧力は、実際に院外処方が始まって以降も留まることはありませんでした。
ターゲットにされてしまった背景には、わたし自身の判断も関係していたのかもしれません。役員があらかじめ手配していた機器業者ではなく、別の業者への変更を社長である母に提案し、採用されたためです。役員が推奨する業者の機材は必ずしも扱いやすいとは言えず、配置に関しても作業動線上の懸念が大きかったことや納入価格の差が大きかったことがその理由でした。
しかし、処方箋が届かないからといって手をこまねいていたわけではありません。本格始動の日を見据え、事務スタッフへの接遇トレーニングの実施、レセプト計算に対する理解の集中的な深化、そして多岐にわたる業務の優先順位付けと徹底など、来たるべき時に備えてやるべき準備に全力を注いでいました。
そして念願の院外処方が始まると、現場は一変して多忙を極めることとなりました。事前の準備の甲斐もあり、事務スタッフは優先順位や動線を的確に把握した動きができていましたが、薬剤師たちをうまくコントロールすることは困難でした。多忙ゆえに現場で生じる人間関係のギスギスとしたやり取りと、社長である母の苛立ち。役員のプレッシャーの間に挟まれたわたしは、まるでサンドバッグのように双方からの不満を受け止め、精神的に打ちひしがれていきました。その中でも、減価率を保つ仕入れ方法を卸会社と相談して採用し、年商3億円ほど利益率も10%前後を安定して出せるように仕組みづくりを行いました。これについてもわたしの評価には繋がりませんでした。
【そして独立へ】
仕事面では心身ともに摩耗する日々が続いていたものの、プライベートにおいては不思議と自分が理想として描いていたイメージ通りに物事が展開していきました。
高校生の頃に漠然と思い描いていた「30歳までにマイホームを手に入れる」という夢が、まさに30歳の節目に現実となったのです。当時は実に奇妙な巡り合わせを感じました。本来のわたしの年収では到底手が届かない高価格な物件だったにもかかわらず、住宅メーカーの担当者は「ぜひあなたに購入してほしい」と熱心に働きかけてくれました。そして、購入を可能にするためのあらゆる手段やプランを講じ、販売へとこぎ着けてくれたのです。今振り返ってみても、夢が現実へと向かう局面では、あらゆる経路を通じて実現の手立てが差し伸べられるのだと実感させられる体験でした。
また、22歳の頃に漠然と心に浮かべていた「いずれは経営者になる」というもう一つのイメージがありました。当時の心境としては、ただ単に「周囲よりも早く頭一つ抜け出したい」という思いが強かったのを覚えています。根底には、会社員として誰かに雇われ続ける自分というものが、どうしても思い描けなかったのです。とはいえ、その実現に向けた具体的な手段を模索したり、特別な行動を起こしたりしていたわけではありません。ただただ、将来への強いイメージと「お金持ちになりたい」というシンプルな欲求を抱いていただけでした(笑)。今はインターネットがあり、簡単に検索できるのが良いですね。
そして31歳の時、ある場所に「医療モールを建設する予定があり、内科クリニックが1院開院します。ここで薬局を開業しませんか?」という打診をいただきました。
しかし試算してみると、単独の個人クリニック1院のみを対象とする営業では採算が合わないことが判明しました。 わたし自身が薬剤師資格を持たないため人件費が発生することに加え、当時の薬剤師市場が売り手市場で給与水準が高騰していたことが影響しています。 制度上、薬剤師1人あたりが受けられる処方箋は1日40枚までに制限されており、41枚以上80枚未満の対応には2人目の配置が不可欠でした。 さらに、物件がスケルトン渡しのため1,000万円を超える初期内装費用を要し、毎月45万円の賃料負担も重くのしかかります。 潤沢な自己資金があり無借金で進められるのであればハードルも下がりますが、事業立ち上げに資金調達(借入金)が必要な状況下では、個人で乗り出すにはあまりにもリスクが高すぎる挑戦でした。
【踏み出した一歩】
さらに詳しく話を進める中で、「2年以内にもう1棟、病院を建設する計画がある」という提案を受けました。当時の若さゆえの野心や、「この好機を絶対に掴み取りたい」という強い情熱に突き動かされ、私はその計画に乗ることを決断したのです。一度思い描いた夢が現実に向かって動き出すと、まるで勢いを増した流れのように止まることなく進んでいきました。
こうして32歳の時、私は念願の「経営者」という立場に立つことができました。
続く→






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