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わたしはビジネス界が言うような「ジェネラリスト」ではないかもしれない。しかし、過去の経験を振り返ると様々な経験をしていて、そのことが大きな役割を生めると信じています。ホームページのプロフィールでも書いてることが主だと思いますが、少し詳しく書いてみようと思います。
【サッカーに打ち込んだ日々と挫折】
小学3年生から始めたサッカー生活も、大学4年生の秋のリーグ戦で区切りをつける予定でした。小学6年生での県選抜選出、中学時代のJr.ユースでの全国大会2度出場、大学2年生でのインカレレギュラー出場など、派手さはなくとも自分なりに努力を重ね、確かな実績を積み上げてきた自負がありました。
しかし大学4年生を迎える直前の3月、22歳の時に腰椎椎間板ヘルニアを発症します。医師から突きつけられた診断は、「サッカーを継続するなら手術が必要。日常を送るだけなら痛みを誤魔化しながら生活できる」というものでした。13年間走り続けてきた日々からようやく解放されるという安堵感がありました。というのも、小学生の頃から大学時代に至るまで、私の生活は月曜日を除く全日程がサッカーに捧げられていたからです。週末は常に練習試合や遠征に明け暮れ、皆が楽しんでいる夏休みともなれば一日中過酷なトレーニングに没頭するという日々を、実に13年間にわたって継続してきました。プロの道を切り拓いた方々はさらなる研鑽を積まれたことでしょうが、わたし個人としては、人生の極めて貴重な時間をこの一事に投じてきたのだと、深い感慨とともに振り返っています。その一方で、不完全燃焼のような未練が残る複雑な心境でした。
【苦悶の日々と医療への不信感】
満足に歩くことも、走ることもボールを蹴ることすらできない状態になりながらも、下級生チームのコーチとして部の練習には参加し続けていました。
回復を願って通った整形外科では、牽引や電気治療などの温熱療法が繰り返されるばかり。整骨院にも足を運んだものの、同様の温めや気休め程度のマッサージにとどまり、ヘルニアの症状が改善することはありませんでした。次第に、病院や整骨院の対応に対して「単なる気休めに過ぎない」と失望感を募らせていきました。
【運命の整体との出会い】
転機が訪れたのはその年の5月末のことです。母の知人からの紹介で、とある整体院を訪ねました。店内にはお経が流れ、施術時には白い股引きとシャツの着用が義務付けられているという、一見すると非常に怪しげな場所でした。
しかし、驚くことにわずか2回の施術で長引いていた痛みが完全に消失したのです。キック力は落ちたものの、走ることや試合にも復帰し、大学4年生のサッカー人生を終える事ができたのです。これこそが、私と「整体」との決定的な出会いでした。
その際、私を救ってくれた先生が口にした「1回か2回で治せない者は本当の整体師ではない」という言葉は、今もなお私の施術における絶対的な基準であり、活動の大きな原動力となっています。
【アルバイトから広がる社会への第一歩】
大学生活の傍ら、4年間にわたり飲食店でアルバイトをし、内3年間は同じダイニングバーでのアルバイトに従事していました。接客における厳格なサービスの所作や、客人を慮る心、あるいは電話越しの応対など、社会人としての基礎は、この日々の中で培われたといっても過言ではありません。アンダーグランドな世界を垣間見れたのもこの経験があったからです(笑)。
酒類に関する知識を深めていたこともあり、卒業を控えた時期には、広範な店舗網を持つ酒類販売の上場企業より内定を賜っておりました。いずれは自らの手でワインやウイスキーの輸入事業に携わりたいという、淡い期待も抱いておりました。
しかしながら、「酒を売る生業に就くなど言語道断」という家族からの猛烈な反対に遭います。就職に向けて意識が行っていた最中の出来事に対して若さゆえの憤りに任せ、私は自らその内定を辞退してしまいました。ささやかな夢は露と消えてしまったのです。今振り返れば、当時の私は単なる「働き口」を求めていたに過ぎず、真に志すべき目的を見失っていたのでしょう。折しも就職氷河期の真っ只中、次なる道は見出せず、結局は学生時代から馴染み深いダイニングバーへと、フリーターとして“帰還”することになったのです。
続く→






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